エノラ・ゲイ号 機長との対話 By 元・広島平和記念館館長 高橋昭博氏


いわゆる戦後生まれの私には、ピンとこない記事でしたが、たまたまRCWA誌のタクタ君が、アメリカのRCスケールのイベントの取材で、アメリカ人がゼロ戦のRCモデルを製作・飛行させているのを見て「戦争の歴史や相手国の機体を製作」することにすこしだけ疑問を持たれたらしい記事を読みました。
当のアメリカ人は「戦争観とRC飛行機のゼロ戦」とは次元が違うと答えたらしい(詳細はRCAWの2003年1月号の記事を読んでね)
ちょうどのこの記事を読む前に、某月刊誌に元・広島平和会館館長が、あの広島に原爆を投下したB−29 通称 エノラ・ゲイ号の機長と対談した記事を読む機会があり、たかがRCを通してではあるが妙に心に残るものがありましたので記事の一部を抜粋して掲載します。
私は、戦争中(WWU)の機体にはほとんど興味もありませんし、知識もありません。これは私なりの戦争観と言えるかもしれません。
戦時中の話を母親から聞かされて育ちましたので、特に「グラマン」という名前を聞くだけでなんとなくイヤな感じがするんです。
完全に母親に洗脳されたからかもしれませんね。しかも今様なコンピュータ制御の、あの湾岸戦争などの映像とはまったくインパクトが違いますからね 何mmの弾丸が生々しく飛び交うものとは相当違います。
前おきはこれぐらいで、(2002年12月号)


以下、高橋氏の記事から抜粋 (  「潮 うしお」(月刊誌) 2002年12月号 より)


幾ら年月を重ねても、私の脳裏から被爆の惨状は消えることはない。私は中学2年生14歳の時、爆心地から1.4kmの校庭で被爆した。
後頭部、背中、両手、両足に大やけどを負い、級友およそ60名のうち50名が亡くなった。被爆の後傷害と思われる慢性肝炎をはじめ多くの病気を抱え得ている。  < 途中省略 >

ポール・W・チベッツ大佐。原爆投下機エノラ・ゲイ号の機長であった。1980年6月、私はチベッツ氏と会った。もとより双方初めてである。
アメリカ上院議員会館で開かれた「広島原爆展」の説明役として渡米したときのことであった。同行していた広島の民放・中国放送の記者がチベッツ氏とは旧知の間柄であった。その記者が「チベッツ氏がワシントンに来ているのですが、あなたは会う気持ちがありますか」と問うた。「ぜひ会わせて下さい」と答えた。
チベッツ氏は会うことをためらっていたようだった。記者が説得してくれたのだろう。
上院議員会館の裏手にある公園の一角でチベッツ氏は待っていた。上下の洋服はブラウン、そして同色のアタッシュケース。思ったより人品豊かな老紳士だった。
私の方から「あなたにいまさら恨みつらみを言うつもりはありません。憎しみで憎しみを消すことはできませんから...」と、握手を求めた。
私の右手のケロイドを見てチベッツ氏の表情が強ばった。
「これは原爆によるやけどのあとですか」とチベッツ氏。
「そうです」と私。
しばらく沈黙が続いた。「私はあなたのB-29を校庭から級友たちと見ていました。警報は解除されていましたから...広島の朝の空は快晴でした」、 「機内からも地上はよく見えました」。
私たちはこもごも話しあった。
最後に「私たち被爆者は、どんな国の上にも、どんな立場の人たちの上にも、核兵器の過ちが繰り返されてはならないとの強い思いから、核兵器廃絶を世界に訴え続けてきました。どうかあなたも平和のためにご尽力ください」と伝えた。
チベッツ氏は「あなたの気持ちはよくわかります。しかしもし再び戦争が起こり、同じ命令が下れば、私は同じことをやるでしょう。それが軍人の論理であり、戦争というものです」 と言い放った。
それだけで終われば、悲しさや怒りが残っただろうが、チベッツ氏は続けてこう言った。
「だから戦争は絶対に起こしてならないのです」と。
その30分間。チベッツ氏の両手は私の右手を握ったままだった。チベッツ氏の眼鏡の奥に光るものを感じたのは私の思い過ごしであっただろうか。今でも会ってよかったと思っている。